それは、不意打ちで「接吻」を仕掛ける事。
どうしてそんなことが流行っているのか、と同じくのたまの私はほとほと呆れていた。
「なまえも誰かにやってきてよ」
「そんなしょうもない事やらないよ」
つい本音を漏らすと、友人二人が文机から身を乗り出して私を睨んだ。
「あんた。今、私たちのこと敵に回した?」
「分かった分かった!やるから!そんな怖い目で見ないでよ」
あまりの怖さに泣きべそをかきながら、迫ってきた肩を押して遠ざける。
やると言った途端、般若のような顔は天女の如く穏やかな笑顔であった。
同じくのたまでも、私はこんな事できない。
「それで、誰でもいいの?」
「貴方にはいい相手がいるじゃない。鉢屋三郎」
「うわぁ…三郎とはそんな仲じゃないよ」
「じゃあいいじゃん。不破と間違えたら甘味奢ってね」
鉢屋の反応が楽しみだね!と、まるで恋話をする乙女のように話しながら、私を置いて出て行った背中を目で追う。
どっと押し寄せる疲労感に文机に突っ伏した。
ぶつくさと文句を垂れながらも、私の足は忍たま長屋に向かっていた。
弱みを握られている訳でもないのに、女を敵に回すと怖いということをこの学園で学んだ私は、逆らえずにひたすら足を動かしている。
五年ろ組の部屋の前で声をかけると、中からは三郎以外の声。
がらりと開いた戸からは、三郎が日頃変装をしている本家本元、雷蔵の姿。
「三郎に用があるんだけど、いる?」
「委員会があるって少し前に出ていったところ」
「分かった、ありがとう。竹谷も邪魔してごめんね」
机に向かって何かを必死に書き記している竹谷の背中に謝れば、気にすんな〜と空いている手をひらひらと振った。
三郎の所属委員会は、学級委員長委員会。
業務は学園長先生の突然の思いつき行事の実況、など。
と言いつつも、そう毎日思いつかれて行事を行っていては学業どころではないので、普段は委員会活動という名のお茶飲み会だ。
何故そんな事を知っているかというと、三郎にひっついて何度かお邪魔しているから。
いつもの部屋を覗き込めば、お饅頭を頬張る一年二人と五年二人の姿。
私の気も知らないで、美味しそうに口を動かしている。
「こんにちは」
「おお、なまえちゃんどうしたの?」
「お前もお茶飲みに来たのか?」
「「みょうじ先輩こんにちは」」
「こんにちは」
礼儀正しく挨拶してくれた一年生に手を振って、三郎と庄左ヱ門の間に座布団を置いて座った。
話し合った訳でもないのに、お邪魔する時は大抵この二人の間と決まっている。
二人もそのつもりで、私が部屋に入るなり一人分の隙間を空けてくれた。
隣の三郎が、空になった皿をこちらに見せつける。
「来るなら事前に言わないと。菓子もなければ、湯呑みも無いぞ」
「急に来たのは悪いなぁって思ってるよ。何かちょっと残ってない?」
「無い。茶くらいは出せるが湯呑みがない。飲みたければ食堂で借りてこい」
こんな中で事を起こせるわけもなく、少しだけ息抜きをさせて欲しかった。
でも、床にくっついた私の臀部はもう持ち上がりませんと訴えかけてきている。
つまり、面倒臭い。
「そこまでして欲しくないや…誰か後でいいからお茶を少し恵んでほしいな」
「俺ので良ければ足して飲む?」
「ったく、これでも使ってろ」
にこやかに湯呑みを差し出そうとした尾浜の手を潰さん勢いで、私の前に乱雑に空の湯呑みが置かれる。
危機一髪だった自身の手をさする尾浜の心配もそこそこに、私の頭の中はなんでそんな嘘をついたのか、只々疑問であった。
私たちの様子を窺いながら、丁寧にお茶を注いでくれた彦四郎に礼を述べて、湯気の立つお茶をすする。
あぁ、あつい、けどおいしい。
ほっと一息吐くと、周りの空気が変わった。
三郎と私以外が立ち上がったからだ。
「俺たちお菓子を調達してくるから、なまえちゃんは三郎とのんびりしてて」
「ちょっとお邪魔して帰るつもりだから、気にしなくていいよ」
「いや、俺たちがまだ食べたいから。じゃあ行ってきます」
十分皿に乗っていただろうにまだ食べたいのかとツッコミを入れる間もなく、足早に三人は姿を消した。
尾浜がやけにこちらを見ていたのは、気のせいではないだろう。
やっぱり、気付かれているんだ。
もうかなりのくのたまが悪戯を終えた後だ、気を付けろと話が回っていたっておかしくは無い。
というか、回っていないわけがない。
「ねぇ三郎、ごめん。私に接吻されたって、話し合わせてくれない?」
三郎相手に接吻する事は、本当に気が進まなかった。
他の誰であっても私はきっと完遂できないだろうが、三郎なんてもっとやりたくない。
こうなればもう直接交渉をしようと、話を切り出した。
「やっぱりその話か」
飲み干した空の湯呑みを右手で遊ばせながら、頬杖をつく。
三郎は私の願いには回答せず、雑談を続けてきた。
「なんでくのたまは、四年生以上にあんな悪戯を?好きでもない男に」
「くのいちの卵だから。好きでもない男にそういう事ができると、取れる情報も増える。だから、山本シナ先生のお叱りもない。先生が知らないわけないよ、こんなくだらない遊びが流行ってるの」
三郎は胡座をかいて、私の答えにそれはそれは暇そうにしていた。
そっちが聞いてきたくせに、なんだそれ。
「適当に合わせてやる」とか何とか。
雑談なんかよりそういう答えが欲しいのに。
「で、三郎に接吻してこいって友人に脅されてるけど、そんな事はしたくないわけ。だから、万が一くのたまに聞かれてもいいように話を合わせたいの。適当に話作るから覚えてもらっていい?」
「そんな事はしたくない、って。なんで?」
「…今はそんな事良くない?尾浜たち戻ってきちゃうし、話を」
元来の弱気な性格もあり、表情を隠す事が苦手だった。
学園で授業を受けて、成長に伴い大分くのたまらしくなったとは思うが…
それは自覚の中の話であり、山本先生にも昔から注意されている。
つまり、私は三郎にそう話を振られて、今ものすごく困り果てた顔を隠せずにいるのだ。
言えないよ、理由なんて。
誰にもこの気持ちは言っていないし。
なのにやたらと三郎は、何故かと食い下がってくる。
「俺たちの間でも、詳細は注意喚起を兼ねて話が回ってる」
「でしょうね。これ以上好いてもいないくのたまから接吻されても、嫌だろうし」
まぁな、と頷く顔はどういう心情か窺えなかったが、三郎の口は私に話をさせないとばかりに回り続けた。
「共有される話の中に、お前の名前は今のところ無いな」
「だってやってないからね。…そういえば、私も三郎と雷蔵にしたって聞いてないかも」
はて、私が忘れているだけ?
呆れて聞くのを放棄してしまっていたかな。
二人の区別がつかないから、まだ手をつけていない可能性もある。
「当たり前だ。何故なら俺と雷蔵は悪戯を躱し続けている。さぁ、それは何故か」
私に向けて人差し指を立て、突如問われた問いに困惑した。
いや、何故かと言われましても。
「嫌だから?想い人にされるのと、嫌いな人にされるのとでは、誰だって前者でしょ」
「誰だって、ねぇ。ということは、なまえもってことだ」
思わず視線を彷徨わせる。
「一般論だよ。私がそうとは限らない。ねぇ、この話はいいから、どこにされたかだけでも口裏合わせ……」
言葉は続けられなかった。
眼前に三郎の顔が広がる。
超至近距離で、視線がぶつかる。
それは、あまりにも長い一瞬だった。
離れていく三郎を呆然と見つめる。
「………あんたの口って、ちゃんと人肌だったんだ」
「第一声がそれかよ」
だって、そんな調子でいないと、どうにかなってしまいそうだから。
何か、何か言わなきゃ。
というか、何で突然。
ぐるぐると回る思考を落ち着かせるために、三郎の斜め後ろにある掛け軸を見つめているうちに、耐えていたはずの恥ずかしさが時間差でやってくる。
私の顔色がどうなっているかなんて、目の前の三郎の動きで一目瞭然。
私の顔色を見て息を呑むんじゃない。
頬杖をついて、少しでも向こう側から顔が見えないようにそっぽを向く。
「見せ物じゃないんだけど」
弱々しく吐き出した声に、三郎は自身の髪を指でくるくると巻きながら、私と反対の方を向いた。
「…不意をついて口にしたって報告すればいいだろ」
「みんな頬か、手の甲とかなのに言えるわけないじゃん」
一人だけ口にしてきました、なんて言ったらどんな目に合うか分かったもんじゃない。
くのたまって本当に怖いんだから。
気まずい沈黙の流れる部屋に耐えきれず、尾浜たちが戻るのを待たずして立ち上がる。
「失敗したことにするよ。三郎と雷蔵を間違えたら甘味を奢る約束なんだ。雷蔵に話つけてくるね」
「なんだって!?そっちの方がマズい!」
立ち去ろうとする私の手首を、三郎が慌てて掴む。
「何がマズいの?」
「あ、いや…」
歯切れ悪く吃る三郎に、くのたまの意地をかけて一歩足を踏み出し食い下がる。
すると、肩に手を置かれて流れるように部屋を追い出された。
目の前でぴしゃり、と障子が閉まる。
開けようとしても押さえつけられているらしく、びくともしない。
「ちょっと!答えてよ!」
「雷蔵に、なまえの接吻相手は三郎じゃないとダメだから、絶対に被害に遭うなと怒られてるんだよ」
障子越しに三郎が告げた衝撃の言葉に、こじ開けようとしていた手の力がみるみるうちに緩んでいく。
「同じ顔だから、雷蔵も絶対逃げ切るって約束だ」
何それ。
それじゃあまるで。
「私と、三郎が思い合ってるみたいじゃん…」
どんな都合のいい夢?
障子にかけていた手はだらりと落ち、障子紙越しでもそこに顔を向けていられずに床の木目を見つめる。
頬に微かに風の通りを感じた。
木目と私の足元を映す視界は、先程まで座り込んでいた部屋の木目を捉える。
「…違うのかよ」
目と目が合う。
いつの間に頭巾を外していたのだろうか。
変わらない顔色の向こうで、狐色の髪が風に揺れながら、真っ赤な耳を覗かせていた。